そろそろ降るよと雨蛙が知らせるのを耳で楽しみながら、俳人の池田澄子さんの句を反芻してみました。
「まさか蛙になるとは尻尾なくなるとは」
数日前に読んだコラムで取り上げられていたのですが、筆者の解釈に膝を打ちました。「驚いているのは蛙自身。オタマジャクシと信じて疑わず、のんきに水の中を泳いでいたのに、手が生え、足が生え尻尾はなくなって。」
緑色の愛らしい姿で口を半開きにして空を仰ぐ様子は、その驚きに身も心も固まってしまった様であったのかと思うと、憐れになりました。蛙の気持ちになって考えてみると、「どうしたものか。これまでとは勝手が違うぞ。頭が真っ白だ。」
このような経験は人生にもあるとコラムの筆者。「不本意と思える今でも、偶然か必然を経て後に「まさか◯◯になるとは」と驚いているかもしれない。」と締めくくり、この春に新たな旅立ちをした若者に安心を促していました。
俳句とは、何を伝えたいかを丁寧に説明しないところが良さであるとの言葉に従えば、この句を詠んだ池田さんの眼差しと想いが、句を味わう側に余白を与えて自由に遊ばせてくれて有り難い。
雨蛙の背をさすりながら言ってやりたい。「大丈夫だよ。尻尾はないけど、手にも足にも水掻きがあるから、今までより上手に泳げるよ。」